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無名作家の日記

<p>とうとう京都へ来た。山野や桑田は、俺が彼らの圧迫に堪らなくなって、京都へ来たのだと思うかも知れない。が、どう思われたって構うものか。俺はなるべく、彼らのことを考えないようにするのだ。<br> 今日初めて、文科の研究室を見た。思いのほかにいい本がある。蚕が桑の葉を貪るように、片端から読破してやるのだ。研究という点においては、決して東京の連中に負けはしないと、俺はあの研究室を見た時に、まったく心丈夫に思った。<br> その上に、俺は京都そのものが気に入った。ことに今日、大学の前を通っていると、清麗な水が淙々(そうそう)たる音を立てて、流れ下っている小溝に、白河の山から流れてきたらしい真赤な木の実が、いくつも流れ下っているのを見た。東京の街頭などでは、夢にも見られないような、その新鮮(フレッシュ)な情景が、俺の心を初秋の京都にひきつけてしまった。俺は京都が好きになった。京都へ来たことは決して後悔はしない。<br></p>


About author

菊池 寛

菊池 寛

1888年12月26日香川県高松市生まれ。京都大学在学中、第三次、第四次「新思潮」に参加。『屋上の狂人』『父帰る』を発表するが、世間に認められるまでには至らなかった。時事新報社時代に発表した『無名作家の日記』『恩讐の彼方に』が評判になり、文壇的地位を確立する。「文芸春秋」の創刊、「文芸家協会」の設立、芥川賞、直木賞の設定などにも貢献する。



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